【無門関】やさしい現代語訳・解説 第2則「百丈野狐」

2023/09/10
 

こんにちは!

さて、お約束したように、トントン公開していきます。

第二則の百丈野狐は私にとっては、最大の難問です。48則中、一番難しく感じられます。と同時に、一番魅力ある則でもあります。私には手に余る感じがありますが、なんとかこの則を、向こう岸まで漕ぎ渡ってみたいと思います。よろしくお願いします。

①本則

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽(たちま)ち一日退かず。師、遂(つい)に問う、「面前に立つ者は復(ま)た是(こ)れ何人ぞ」。老人云く、「諾(だく)、某甲(それがし)は非人なり。過去、迦葉仏(かしょうぶつ)の時に於(お)いて曾(か)つて比の山に住す。因(ちな)みに学人問う、「大修行底の人環(かえ)って因果に落ちるや」。某甲対えて云く、「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。今請う、和尚一転語を代わって貴(ひと)えに野狐を脱せしめよ」と。

遂に問う、「大修行底の人、環って因果に落ちるや否や」。師云く、「因果を昧(くらま)さず」

老人言下に大悟、作礼して云く、「某甲、己に野狐身を脱して山後に住在す。敢(あ)えて和尚に告ぐ。乞うらくは、亡僧の事例に依れ」。師、維那(いのう)をして白槌(びゃくつい)して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく、「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是の如くなる」と。食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下(がんか)に至って、杖を以て一死野狐を挑出(ちょうしゅつ)し、乃ち火葬に依らしむを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。

黄檗(おうばく)便ち問う、「古人、錯(あやま)って一転語を祇対(しつい)し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合に箇の甚麼(なに)にか作(な)るべき」。師云く、「近前来、伊(かれ)が与(た)めに道(い)わん」。黄檗遂に近前、師に一掌(いっしょう)を与(あた)う。師、手を拍(う)って笑って云く、「将謂(おもえ)らく、胡鬚赤(こしゅしゃく)と。更に赤鬚胡(しゃくしゅこ)有り」。

 

私訳

百丈和尚の法話の際、一人の老人がいて、常に衆僧に付き従って説法を聞いていた。衆僧が退出すれば老人も退出した。あるとき老人は居残った。

和尚はついに問うた。「ワシの目の前の者は、一体何者だ」

老人「はい、私は人間ではございません。その昔、迦葉仏がいらっしゃる頃、この山に住んでおりました。その頃(私が指導していた)学人にこう問われたのです。

学人『修行を完成させた人は、因果に落ちるや否や』

私はこう答えました。『因果には落ちない』。

この答えのせいで五百生という長い間、野狐の身に堕してしまいました。和尚、お願いです。理解を促す目の覚めるような一句でもって、私を狐の身から脱出させてください」

そして、老人はついに問うた。「修行を完成させた人は、因果に落ちるや否や」

百丈和尚「因果を昧(くらま)さず」

老人はこの言葉ですぐさま悟り、礼拝して言った。

「私はすでに野狐の体を脱して、山の裏におります。和尚に申し上げます。願わくば普通の僧侶の葬式に依らんことを」

和尚は維那に命じて白槌を打たせ衆僧に知らしめた。「食後に亡き僧の葬式を執り行う」と。

衆僧は「変だな。皆元気だし涅槃堂にも病人はいない。なぜ葬式なのだ」と噂し合った。

はたして食後になり、百丈和尚は衆僧を伴って山裏の岩の下に行き、杖で野狐の死体を引っ張り出し、それを火葬に付した。

百丈和尚は晩の法話の際、このいきさつを皆に告げた。

弟子の黄檗が質問した。「その老人は間違った一句を放ったため、五百生野狐に堕ちました。正解の一句を放ったなら、どうなりましたかなあ」

和尚「こっちに来い。老人のために言ってやろう」

黄檗は近づくと、和尚に平手打ちを食らわせた。和尚は手を打ち笑って言った。

「達磨大師は赤ひげだというが、ここにもう一人、赤ひげ達磨大師がござったわい!」

 

②評唱

無門曰く、「不落因果、甚(なん)と為(し)てか野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向かって一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)せば、便ち前百丈の風流五百生を贏(か)ち得たることを知り得ん」。

 

私訳

無門曰く。「『因果に落ちず』でなぜ野狐に堕ちたのか。『因果を昧さず』でなぜ野狐から脱せたのか。もしこのポイントを見抜く眼を持ち得たら、かの百丈山の老人も、五百生の間、優雅に生きたことがわかるだろう」

 

③頌

頌に曰く、不落と不昧と、両采一賽。不昧と不落と、千錯万錯。

私訳

賛辞して曰く。不落と不昧のサイコロ振れば、どちらの(賽の)目だって同じこと。不落と不昧のサイコロ振れば、千回万回違う(賽の)目だ。

 

現場検証及び解説

まず本則です。老人がなぜ野狐に落とされたのか説明を試みてみます。

教義的には「修行を完成させた人は因果に落ちない」で正しいのです。それなのになぜ老人はダメ出しされたのか、それは質問に答えたこと、そのことが因果に落ちる行為だったということです。禅は思考を嫌います。それは仏性の根幹たる即今を逸れるからです。

質問僧は「覚者は因果に落ちるのか、そうでないのか」とすでに思考を巡らせています。迷っています。禅的に言えばダメな状態です。迷うことは苦しいので、それを晴らそうとします。師たる老人に尋ねて迷いから逃れようとしました。老人もそれを察してか、「覚者は因果に落ちないのだ」と断言します。しかし、質問に答えてしまったゆえに「覚者は因果に落ちない」という因果の命題を作ってしまった、というわけです。

そのせいで野狐に堕してしまった。真面目に答えてしまったがゆえの悲劇です。たとえば、こんなふうに答えていれば、とりあえず回避できたのかもしれません。

「バカ者! 覚者に因果なんぞあるものか、ワシは答えんぞ!」

 

次に、ではなぜ「因果を昧さず」が正解なのか、という問題に移っていきましょう。

質問が「落ちるや否や」の二択に対して、「落ちる、落ちない」で答えないで、少しずらして答えた、という状況です。第一則の「有りや無しや」の二択に対しての「(名詞の)無」と答えたのと同じです。禅ではこういうやり方はアリなんでしょうね。世間でこういうことをしたら、きっと嫌われます。

昧さずというのは、言い換えれば「ごまかさない」という意味です。「因果をごまかさない」とはどういうことなのでしょうか。まず、正解を言ってから、説明していきたいと思います。

「因果をごまかさない」というのは、①即今(因果のない世界)と②日常(因果がある世界)の二重性をごまかさないで生きることです。

覚者はたぶんこの二重性を生きています。私は覚者ではないので、類推してそう言っています。

覚者は即今(=永遠、因果のない世界)を知る人です。しかし同時に普通の人間でもあります。因果関係を無視して、無時間の境地にずーっと居座っているわけではありません。普通に日常生活を営みますし、営む能力もあります。

ただ、凡夫(未悟の人)と違うのは、因果より上位の即今を知っていて、即今に留まることもできるし、即今からでて因果の世界で、因果に則って行動することも可能なのです。凡夫は因果に使われますが、覚者は因果を使うのです。因果を思考と言い換えることもできます。凡夫は思考に使われますが、覚者は思考を必要なときだけ使うのです。瞑想修行してみると実感できますが、凡夫は実に無駄な思考が多いものです。

また、この「因果を昧さない」生き方は、禅の理想的な覚者像です。禅は悟った後、世間と関わりを持とうとしない覚者を穴倉禅といって、大変嫌います。「悟った後のはたらきが重要だ」ともよく言われます。洞窟の中でふんどし一丁で坐ったままの白髭の覚者みたいなのは評価しないのです(だけど、それなら達磨大師の面壁九年はどうなる?まあ、いいや)。

悟った後も、庶民と一緒に苦楽を共にしながら(その実、庶民とは同じではない)、汗をかいて衆生済度に励んでいる、そのような人物像が禅の理想のようです。「因果に落ちない」覚者然とした人物より、「因果を昧さない」一見普通に見える人物のほうがレベルは高いぞ、という意味合いもありそうです。

 

この則のもうひとつのポイントは百丈和尚と弟子の黄檗とのやりとりです。

黄檗は「正解の一句を放ったなら、どうなりましたか」と問います。「何々したら、こうなる」は因果です。もし、この質問に百丈和尚が真面目に答えてしまったら、野狐に堕してしまいます。答えさせないために、黄檗は百丈和尚に平手打ちを食らわせます。このはたらきを百丈和尚は「法がわかってる奴だ」と認め、「黄檗、お前は達磨大師のような奴だ」とほめたたえた、とこういうわけです。

この話は前段の、老人と質問僧のやりとりと対比しています。このように、無門関では、話と話が響きあっていたりします。話だけでなく、句と句が響きあっていたり、字と字が響きあっていたりする面白さがあります。

西洋の文章はどちらかというと論理的な傾向が強いように思いますが、中国古代の文章はつじつまよりも、この響きあいを大事にしているように思います。また、比喩が多く、絵的というか、イメージで何かを表現しようとしている印象を受けます。私は専門家ではありませんので、あくまでも印象にすぎませんが。

 

次に評唱です。

まず、「百丈の風流五百生」というのは、百丈和尚と百丈山に昔から住む老人と、どちらも風流なのだ、という意味で、二重にものを言っているのだと思います。このことも中国の文章の特徴のように感じます。

ちなみに百丈山に修行寺を構えたから百丈和尚らしいです。黄檗は黄檗山に修行寺を構えた人です。本則で黄檗とありますが、正確には「後に黄檗と名乗ることになる若者」です。このあたり、うろ覚えで言っています。間違っていたら、ごめんなさい。それにしても、「野狐の身でも五百生の間、優雅に生きた」とはどういうことでしょうか。

本則で散々老人が苦しい胸の内を吐露し、百丈和尚に助けを求めたという設定じゃなかったんすかー! と叫びたくなりますね。無門先生は本当にややこしいことを言ってきます。

これは覚者も凡夫(非覚者)と何の違いもない、心の構造は同じなのだから、ということを言っています。

前にも説明したように、覚者は仏性の自覚がある人です。凡夫は仏性の自覚がありません。しかし、仏性を生きていることに違いはありません。

言い換えましょう。覚者は即今(無時間)を知る人です。また、因果(時間)を生きることもできます。即今と因果を自由に行き来できます。因果を使いこなすことができるのです。

一方、凡夫は即今(無時間)があるにもかかわらず、即今をほとんど知らない人です。何かに集中しているときなど、それとは知らずに即今を生きていることはありますが、その自覚がありません。因果(時間)に追われながら、因果に使われながら生きています。

また、因果は思考ですので、上記の文章を思考を基準にいうこともできます。

覚者は無思考状態でいることができます。必要なときだけ思考します。無思考と思考を自由に行き来できるのです。

凡夫は無思考状態を保つことはできません。常に思考状態にあります。無思考でありたいと思っても、それができません。

このような違いがありつつも、覚者と凡夫は同じ心の構造をもっています。同じ仏性を生きていることに違いはありません。そのことを無門先生は指摘しているのだと思います。

しかし、ここからは私の実感ですが、凡夫(つまり野狐)として生きるのは、とてもじゃないが風流とはいえません。凡夫として生きることを苦しみと感じることからしか、修行は始まりません。だからこそ、老人も思いつめた表情で法話に聞き入っていたのではないでしょうか。

「迷ったままで悟り」といいたくなる理路はわかりますが、経験的に同意することはできません。それでは仏教を説く意味がなくなってしまいます。

私の捉え方が間違っているのかもしれませんが、「疑問」というフセンを付けて、先に進みます。

 

頌に移ります。

これがまた難易度が高い。頑張ります。

これは丁半博打の事だと想像します。サイコロを振ると、丁(奇数)か半(偶数)のどちらかが出ます。それで勝敗を決めます。2つに1つです。

即今(無時間)と因果(時間)の問題を丁半の比喩で表現しています。即今に留まれば因果はありませんし、因果に落ちれば即今は失われます。実際には半分は即今に在って、半分は因果に在るというようなアンビバレントな状態もあるように思いますが、ここでは単純化して言っておきます。

サイコロを振る前は丁か半か、どちらの目が出るか不明ですが、振ってしまえばどちらかに決まります。しかし、丁の反対には半があり、半の反対には丁があることは明確です。ちょうど紙の表と裏のように背中合わせです。即今と因果の関係もそれと同じです。即今の裏には因果があり、因果の裏には即今があります。

覚者は2つを自由に行き来しますが、凡夫はそれがままなりません。ままなりませんが、構造はまったく同じです。凡夫は、一瞬一瞬即今に留まるチャンスはあるにもかかわらず、因果に逸れてしまいます。なぜだか不明ですが、そうなります。少しでも瞑想修行に真面目に取り組んだ方なら、それがわかると思います。因果(=思考)はしつこく起こり続けます。

一句目の「不落と不昧と、両采一賽」を説明します。

「因果に落ちず」と言って因果に落ちてしまったケースも、「因果を昧さず」と言って因果を回避したケースも、心の構造に関しては同じ(両采一賽、どちらの目も同じ)、ということです。丁と出ても半と出ても、同じもの(この場合、サイコロ)の別の側面なのだ、ということです。

二句目の「不落と不昧と、千錯万錯」の説明をします。

これは普通に、「因果に落ちた」場合と「因果に落ちず即今を守った」場合は、別の状態だということを言っています。丁とでたら半でなく、半とでたら丁ではない、のです。

 

即今を守るだの、因果に落ちるだの、瞑想体験のない方にはピンとこないかもしれません。

今、ちょっと思いついたので比喩で言ってみます。

川で釣りをしている場面を想像してみてください。川面にウキが垂直に立って揺れています。ウキの下、水中は糸が垂れオモリが付いています。当然川の流れがあります。川面に近いほど水流は強く、川底に近いほど水流は穏やかです。

水流が因果です。川面に近い場所ほど因果の流れが強く、ウキは下流に流されがちです。しかし、オモリの重量が大きい場合、つまり水流に対して垂直軸の力が強い場合は、ウキは流されにくくなります。オモリの重量が即今の力、即今の深さです。

どうでしょうか。何かが伝わりましたでしょうか。私の力も次第に尽きてきたようです。カラータイマーが鳴っています。そろそろ引き上げねばなりません。今日はこの辺で。

第三則で、またお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第3則「倶胝堅指」

 

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