【無門関】やさしい現代語訳・解説 第1則「趙州狗子」

2023/10/06
 

こんにちは!お久しぶりです。

禅友との往復書簡に忙しく、ブログを更新する暇がなかったのです。おやじ同士、何を手紙のやり取りなんぞしていたかと申しますと、あの難解で有名な「無門関」をお互いに訳したり、批評しあったりしていたのです。そして、今回その成果を発表することにいたしました。

漢文の素養もない、禅の修行もままならぬ私が、聖典の誉れ高い「無門関」を訳すなどという行為は、出過ぎたマネであることは重々承知しております。ですが、せっかくの労作を、自宅のファイルにそのまま埋もれさせておくのはもったいない、そう感じました。幸い日本は自由にものの言える国です(そうですね?)。

「そんなの大人の自由研究じゃん!」という身内からの批判もあります。ひょっとしたら、そうなのかもしれません。ですが、「このままでは終われない」感がつのるなか、勇気を振り絞って、諸先輩方の胸を借りるつもりで、公開することにいたしました。

謎解きと称しましたが、「無門関」の謎を解き明かした、などとは到底言えません。素人の素朴な解釈を素直に出してみた、ただそれだけです。勢いで破廉恥な表現、軽はずみな言葉が飛び出すこともあるかとは思いますが、そこは太くご寛容にご容赦ください。

また、禅は難解であるものを難解であるままつかみ取るのだ、というような気組みが、良くも悪くもあるような気がします。それが、私は超苦手です。スパーンとハッキリものを理解したい、そのような気質なのです。なので、「無門関」にも出来るだけそのような態度で臨みました。

禅的に見れば「語りすぎ」になることは必至ですが、そのぶん一般的なものにはなると思いますし、そうしたいと思います。しかしながら、仏法の核心部分は通常の意識に馴染みやすいものではありません。そこをどう一般の方々にもわかりやすく伝えるのか、それが工夫のしどころです。果たして上手くいきますかどうか。

なんだか、わけのわからないおっちゃんが、わけのわからないことを言っている・・・そうならないことを祈るばかりです。

本題に入る前に、「無門関」の簡単な解説と、表記の仕方についてご説明いたします。

 

はじめる前に 「無門関」の傾向と対策

「無門関」は中国の宋の時代に禅僧無門慧開(1183~1260)によって編まれた仏教書です。全部で48則あります。則というのは、まあ、問題のようなものです。ですから、48題難問が並んでいると思ってください。

各則の内容はそれぞれですが、スタイルは一様です。スタイルは次のようなものです。

①本則(古則とも言う。中国の仏教故事からの引用)

②評唱(ひょうしょう)。無門曰く(いわく)、から続く文章。

無門先生(親しみを込めてそう呼ばせてもらいます)の本則に対する批評、コメントです。このコメントがなまじっかのコメントではなく、相当に厄介です。おいおいわかっていただけると思いますが、この無門先生かなりのひねくれものです(ご意見多々ございましょうが)。本則で充分に難解なところを、さらにややこしくします。

③頌(じゅ)。頌に曰く、から続く文。

頌を辞書で調べると「人の美徳をほめたたえた詩歌」とあります。ですから、本則と評唱で取り上げた禅僧の行為をほめたたえるコーナーのようです。

ようです、と曖昧な言い方をしたのは、しばしば一見貶(けな)しているようにも読めるからです。この頌は無門先生のオリジナルですが、古い歌からの引用もあるようです。

頌に限らず、評唱においても無門先生は結構人を貶(けな)すのです。しかも、「貶しながらほめる」というような、ややこしいことも平気でやるのです。

この「無門関」の難解さの一因は、当時の中国人のメンタリティのややこしさにあると私は思います。

ちなみに「貶しながらほめる」ことを「抑下(よくげ)の托上(たくじょう)」というらしいです。正確には「悪辣(あくらつ)で激しい言葉を投げかけながらも相手の価値を認めていること」のようです。

単純バカの私がもっとも不得意とする分野です。

とにかく仏教の難解さに加えて、無門先生が繰り出してくるひねくれたものの言い方の難解さに耐えて、この「無門関」を読み解く旅に、これから出かけようというわけです。

 

まず、①②を読み下し文で、③を原文で提示し、それぞれに私訳を施します。そして最後に私自身のコメント、「現場検証及び解説」を付します。ここで、やや私見を述べさせてもらいます。

間違いも多いでしょう。誤解もありましょう。ご指摘くだされば助かります。発展途上の修行者の見解です。どうか、大目に見てやってください。

テキストは岩波文庫の「無門関」を底本といたしました。訳す際には西村恵信先生の注と訳を参考にさせていただきました。ここに、深くお礼申し上げます。ただ、訳はちょっとばかし先生とは違ったものになっちゃいました。

私は禅から入って、テーラワーダ仏教に抜け、さらにヒンズー教、非二元の教えと学んだ輩です。

自分の糧になりそうな情報は、なんだって貪欲に取り入れています。頭の中はごった煮状態です。こういったものの影響下にありますので、用語が入り乱れる可能性がありますこと、ご了承ください。

出来るだけ一般の方にもわかるように用語解説などにも心がけたいと思います。

では、謎解きゲームの第一歩を踏み出しましょう。

 

第1則 趙州狗子

①本則

趙州和尚、因(ちな)みに僧問う、「狗子(くす)に還(かえ)って仏性有りや、また無しや」。州云く、「無」

 私訳

趙州和尚にある僧が問うた。「犬(狗子)に仏性は有りますか、それとも無いですか」

趙州和尚は言った。「無」

②評唱

無門曰く、「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且(しば)らく道(い)え、如何が是れ祖師の関。只だ者(こ)の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり。遂に之れを目(なず)けて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見(まみ)えるのみに非ず、便(すなわ)ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あい結んで同一眼に見、同一耳に聞く可し。豈(あ)に慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫(な)しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、通身に箇の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ。昼夜提撕(ていぜい)して、虚無の会(え)を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了(どんりょう)するが如くに相い似て、吐けども又た吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん)して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。幕然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。且らく作麼生(そもさん)か提撕せん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙(こ)せよ。若し間断せずんば、好だ法燭(ほうしょく)の一点すれば便ち著(つ)くに似ん」。

私訳

無門曰く。

禅を修行するなら、必ずや祖師が設けた難関を突破せねばならぬ。妙なる悟境を得るためには、自我(エゴ)を身動きとれぬようにし、絶滅してしまうことが肝要だ。

祖師の難関を突破せず、自我を絶滅することもできぬのなら、これはもう草木に寄付く精霊のような(頼りない)存在だ。

さあ、言ってみよ。祖師の難関とはどんなものだ。

ただ、この無という一字、これがわが宗門の難関なのだ。名付けて禅宗無門関という。

この無という難関に透った者は、趙州和尚に親しくお会いできるだけでなく、歴代の祖師方と手に手を取り合って共に行き、眉を結び合うように祖師と同じ眼で見、同じ耳で聞くことができるのだ。なんと嬉しいことじゃないか。どうして透らないでいられようか。

三百六十の骨、八万四千の穴を持つというこの全身に、「無、これなんぞ」と疑いを発し、無の字に成り切るのだ。

昼夜問わずこの問題と共にあれ。これを「なにもない無」と解釈してはならぬ。「有る無いの無」と解釈してはならぬ。この無字と共にある修行は、熱した鉄玉を飲み込むに似て、吐こうにも吐けないのだ。

(しかし、これを持続すれば)今ある悪知悪覚(思考・イメージ)が使い果たされ、心がゆっくりと純粋で柔らかなものになり、自然に内と外がひとつになる。

(その境地は)ものが言えない人が夢を見るようなもので表現しようがなく、ただ自分でそうとわかるだけである。突然それが起これば、天を驚かし地を動かすようなことになろう。

こうなれば、関羽将軍の大刀を奪い得たようなもの、仏陀に逢えば仏陀を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、生死の岸辺(迷いの中)にあって自由自在にはたらくことができ、六道四生(輪廻の苦しみ)のなかにあっても遊戯三昧の境地となろう。

さて、諸君はどのようにして、この無字に取り組むのか。持てる気力を出し尽くして、これに取り組んでみよ。

もしこれが途切れることなくできたなら、法の灯がパッと燃え上がることだろう。

③頌

頌曰 狗子仏性 全提正令 纔渡有無 喪身失命

私訳

賛辞して曰く。犬に仏性、正法(仏法)丸出し。わずかでも有無を持ち出しゃ、命がない。

 

現場検証及び解説

無門慧海著の「無門関」で、第一則は「無字を探究せよ」ということで、無字づくしなわけですが、この無という言葉が厄介なのです。

質問した僧は「犬に仏性が有るのか無いのか」という二択で質問したのですが、趙州和尚和尚は「無」という名詞で答えた、という状況です。元の逸話がどうだったのかは知りません。ひょっとしたら、「無い!」と答えた可能性もあります。

しかしながら、評唱での無門先生の取り上げ方は、明らかに名詞としての無のようです。また、無が一体何を指し示すのか、全く説明がなされないまま、無を中心に修行法が勇ましく語られていきます。読者は置いてきぼりを食らわされます。

趙州和尚が言った「無」とは、一体何なのか、また、それを受けて無門先生が探究せよとしきりにけしかける「無」とは何なのか、それをまず明らかにしない限り「わかったような、わからんような」妙な気分にさせられます。

「無」を説明するのはかなり難しいことです。いえ、そもそも「無」は説明できるものではない、というのが禅の世界の定説です。

しかし、それをやっておかないと、後に続く47則も「わかったような、わからんような」ものになってしまいますので、無謀承知でチャレンジしたいと思います。果たして、あなたにうまく伝わるかどうか・・・。

 

「無」とは仏性のこと、私たち自身のことです。私たち自身といっても、私たちの肉体のことではありません。また、私たち個人のことでもありません。では、何なのでしょうか。私たち有機体を有機体たらしめている「生命エネルギーのようなもの」です。おかしなことを言う奴だ、と思われるでしょうが、もう少しお付き合いください。

ようなもの、としたのはエネルギーなら測定することができ、大小をいう単位がありますが、仏性(=無)を計測することはできません。ですから、科学が仏性を発見することは不可能です。なぜなら、科学しているものそれ自身が仏性であるからです。

科学至上主義者からはこう非難されるでしょう。「あなたはそれを何らかの方法で(科学的な方法でないにせよ)確認したのか」

私はこう答えます。「いえ、私は確認したわけではありません。覚者(禅僧など悟った人のこと)が言っていることから類推して、そう言っているだけです」

何とも頼りないことで、申し訳ございません。ですが、私の限界をお知らせしておくことで、読者の皆さんには以後の判断の目安になるかと思います。

 

さあ、気を取り直して続けましょう。

仏性は眼耳鼻舌身意では捉えられないものです。つまり、仏性は対象化できないものです。むしろ対象化しているものが仏性です。仏性は眼耳鼻舌身意を背後から支えているもの、といっていいかもしれません。言わば盲点です。盲点だから、通常の認識では認識できないのです。

では、覚者はどうやって認識したのか。私は覚者ではありませんので、はっきりしたことは言えないのですが、ある覚者は「ソレをソレとして知る」とそのことを表現しました。どうやらダイレクトにソレを知る、というしか表現のしないような事態が、覚醒、悟りと呼ばれているものらしい。

そういえば、上記の無門先生がおっしゃる「ものが言えない人が夢を見るようなもので表現しようがなく、ただそうとわかる」とも符合するようです。原文だと自知。自覚という言葉が思い出されます。

どうでしょう。少しは伝わりましたでしょうか。ちなみに眼耳鼻舌身意の意は意識ですが、意識の主要ははたらきは思考です。思考とは言葉なので、上記の「仏性は眼耳鼻舌身意ではとらえられない」の言説に従いますと、無=仏性は思考では捉えられないし、また表現もできないのです。

ということはどういうことか? なんと私のおしゃべりもまるでムダということになります(笑)。禅が言葉をことさら嫌うのも、このあたりに要因がありそうです。しかし、黙っていては何も伝わりませんし、言葉を使う以上誠意を尽くして言わなければなりません。

比喩を使って表現してみましょう。ここに、真っ白なスクリーンがあります。それが仏性です。仏性上にすべての現象が投影されます。

映画なら映像(眼)と音声(耳)だけですが、仏性の白スクリーンには眼耳鼻舌身意から得るすべての現象が投影されます。

投影されますが、その白スクリーンにはなんの痕跡も残しません。色が染みついたり、匂いが染みついたりはしません。どんな要素も受け入れますし、また去るものを留めません。

映画を観る際、通常は白スクリーンに注目することはありません。これが凡夫(未悟の人)の在り方です。映像の方に心を奪われてしまっています。このことを、迷いの世界ともいいます。しかし、常に白スクリーンを観てはいるわけです。その自覚がないだけで。

それに対して覚者は白スクリーンを自覚しています。それが白スクリーンだと自覚していながらも、同時に映像(現象)も観ている、そういう境地です。

何度も申し上げるように、白スクリーン(仏性=無)は眼耳鼻舌身意を通じて対象化することができませんので、覚者はそれを通常の認識作用で知ったわけではなく、「ソレをソレとして知った」人です。

 

説明が不十分ではありますが、おいおいわかってもらえることを期待して、さらに先に進みます。

仏性が白スクリーンのようなもの、いわば無地の性質を持っていることを確認しました。それに加えて仏性にはもうひとつ重要な性質があります。

即今です。即今はこの時空間の中にある「不動の点」です。「不動の点」であるがゆえに変化が感じられます。即今(=不動の点)は誰にでも身近にあるものです。

ためしに皆さん、しばらくの間静かにしてその即今を感じてみてください。そしてこう自問してください。「かつて即今でなかったことがあっただろうか?」と。

そうです。生き物はすべて今を生きています。そこを離れることはありません。このことも、意識の盲点のように思います。ちょっと考えれば、当たり前のことなのですが。

しかし、普段私たちには「過去や未来がある」ように感じられます。それは思考(=言葉)のなせる業です。そもそも言葉は時間の中でしか意味を成しません。

「あ」だけでは言葉とは言えませんし、言葉のもつ主要なはたらきである伝達がありません。あ・い・し・て・る、とこう言うことで意味が発生しますし、何かが他者に伝わります。思考(=言葉)は時空を跨ぐ道具なのです。

禅は言葉を嫌います。思考することを良しとしません。なぜなら、思考(=言葉)すれば即今から逸れていくからです。即今は仏性の性質ですので、即今から逸れるということは仏性の根からは遠ざかります(仏性の外に出ることはありませんが)。

このような言い方が正しいかどうかわかりませんが、即今は仏性を知る鍵、ポイントのようなものなのかもしれません。

もう少し即今を説明させてください。たとえでいきましょう。時空間を水平面と仮定すると、即今はその水平面に垂直に立つ軸です。ファストフードの飲み物を思い出してください。紙パックがあり、フタとストローがあります。フタが水平面(時空間)、ストロー垂直軸(即今)です。

水平面に眼耳鼻舌身意が展開していくと迷いの世界が現出していきます。しかし、即今に留まれば俗世間とは無関係です。即今は永遠でもあります。

少し話が飛躍してしまいました。

大雑把に即今は無時間、無空間の垂直軸。思考・イメージは時間と空間の水平面と思ってください。

禅的に言えば即今にあることは○。即今を外れ思考・イメージに落ちることは✖です。このことを観念的であれ、あらかじめ知っておくと、無門関は読みやすくなります。

急いで付け加えると、観念的にだけ知っているのは禅的にはダメなのです。観念的でなく実感として上記のことが深く納得されてこそ、仏教を理解したといえます。

偉そうに言って申し訳ありませんが、このポイントをよく肝に銘じて私の文章を読んでいただけると助かります。

知的なものが先行してしまうと、禅を学ぶ際その知識が足枷になってしまいます。大雑把な仏教のコンセプトを理解した上で、瞑想修行をぜひやってみてください。仏教を学ぶには瞑想修行は必須です。

 

次に無門関第一則の文章をたどってみます。

本則で質問僧が「犬に仏性有りや無しや」と趙州和尚に問いかけます。経にもあるように「一切衆生悉有仏性」です。森羅万象に仏性があるというのが仏教の教義であり、真実ですから、犬に仏性があるのはあたりまえです。それなのに趙州和尚は「無」と答えました。なぜなのか。

それは、僧が「有りや無しや」と思考しているからです。思考することは仏性(即今)から離れることです。なので、趙州和尚はその質問をまるごと粉砕するように「無」という名詞をぶつけたのです。また、このようにも考えられます。

僧は「犬に仏性がある」ことを知った上であえて質問した、おそらく趙州和尚は「有る」と答えるだろうと思って。ところが意に反して「無」と言われてしまった。僧は想定外の答えにあっけにとられ思考停止します。

思考停止状態は即今であり、仏性を知る鍵ともなりますから、うまくいけばこの僧は頓悟(ただちに悟ること)したでしょう。それを狙っての趙州和尚の一句とも考えられます。

思考が停止すると、見性体験(仏性をソレをソレとして知る体験)が起こるだろう、と私は理解しています。ただ、瞑想修行をしてみるとわかりますが、なかなかそうはならないのが現状です。

禅は難解だとよく言われますが、単純といえば単純、思考停止状態は○、思考状態は✖です。行法の方向はただひたすら思考停止状態を目指す、ことです。

厳密に言うと「目指す」ことは「かえって逸れる」のですが、今の段階ではひとまず「目指す」と言わせてください。

 

評唱に移ります。ここで重要なのは、無門先生が禅の修行法を語っているということです。その点を中心に見ていきましょう。

「通身に箇の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ」以降の箇所に注目します。「無」は仏性のことです。仏性は対象化されないもので、眼耳鼻舌身意ではとらえられない、と言いました。「ソレをソレとして知る」以外に知りようがないもの、です。そのような「無」を修行の根本とせよ、と無門先生はいっておられるようです。

読み下し文では、無を「昼夜提撕(ていぜい)」せよ、とあります。漢和辞典によれば、提は「ひっさげる」とあります。撕は「ひきさく」という意味。岩波文庫で西村恵信先生は「ひっ提げる」と訳されています。普通に訳せばそうなります。

しかしながら、対象化できないものを「ひっ提げる」ことができるのでしょうか。私はそこが引っかかり、とりあえず「この問題と共にあれ」とモヤっとした訳にしてしまいました。が、正確には西村先生の「ひっ提げる」が正しいです。

「対象化できない無をひっ提げることなんてできるのかなあ」と思います。これは私の体験から申し上げますが、未悟のものが「無をひっ提げる」と「無を観念化してひっ提げる」はめに陥ります。摩訶不思議なことを持ち出され、それを「ひっ提げる」となると必ずそうなります。

ここは無門先生にお会いして直接お尋ねしたいところですが、それはかないません。もし、ご存知の方がいれば、ご教授ください。私の個人的な意見では、「有(思考・イメージ)を観察する側(無あるいは仏性サイド)にできるだけ在れ」ぐらいのほうがいいように思いますが、あるいは古代中国ではそのような行法を実際にしていたのかもしれません。

私自身が誤解している可能性もありますが、ここでは疑問点を提出するだけにとどめて、先に進みます。

「従前の悪知悪覚を蕩尽して」とあります。悪知悪覚というのは思考・イメージだと思います。蕩尽というのは「使い果たす」という意味。

ここにも疑問があります。実際の瞑想修行では、思考・イメージが使い果たされる、ということは、私に限っていえばありません。思考・イメージを意図的になくそうとしても無理です。むしろそういうやり方では、思考・イメージの勢いは強くなります。

だから、無門先生がおっしゃるようなやり方が果たして有効なのか、疑問です。思考・イメージをなくす方向は正しいと思います。ですが、なくす方法が充分に語られていないように思います。悟った後の描写を詳しく述べるよりも、悟る前の行法についてヒントが欲しかったなあ、と私は思います。

ちなみに、私は思考・イメージに対しては「介入しないでただ見守る」というやり方で瞑想しています。禅、テーラワーダ仏教、ヒンズー教、非二元の教えなど、いろんな覚者が少しずつ違うやり方で指導しています。無門先生が称揚されている行法もそのひとつにすぎない、と私は思っています。

何が正しいかを論ずるよりも、いろいろな行法を学び、実際に試してみて、そこから自分に合った行法を創り出していくことを強くお薦めします。

 

さて、最後に頌です。

狗子仏性 全提正令

犬に仏性があるのはあたりまえです。また、仏性とはありふれたもの、私たちに最も身近なものです。しかし、意識の中の最大の盲点になっていますから、ややもすると、他所(よそ)に探しに出かける方も多いようです。注意してください。

纔渡有無 喪身失命

「わずかに有無に渡る」というのは、すなわち思考です。禅では思考するとアウトですから、そのことを「命を失う」と表現しています。思考することにより、即今が失われる、そのことを死に似せて言っています。

別の場所で禅は、自我(エゴ)がなくなることを死に似せて語ることもあります。そうすると、上記のものとは逆の解釈になりますので、注意が必要です。

禅の文献はその描写が豪快ではあることから、誤解されている面があります。使用される言葉は豪快ではありますが、決して大雑把ではありません。正確に、工夫を凝らして表現されているように感じます。

 

さて、長くなりました。今回はこの辺で。2則目以降も、あまり間をおかずにトントン挙げていこうと思いますので、これに懲りずにお付き合いくだされば大変嬉しいです。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第2則「百丈野狐」

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