自意識過剰に悩む君へ
こんにちは!
今回は自意識過剰の問題です。誰しも青春の一時期はこの問題に悩むものですが、私も生来の激しい人見知りで、人間関係ではずいぶん窮屈な思いをしてまいりました。今でこそ古本屋のオヤジなんぞをやっていて、毎日のように平気で人様と接していますが、若い頃は営業先で「こんにちは、○○の○○です」のひと言がなかなか言えなくて猛烈に緊張してしまったものです。年を重ねてややましにはなってはきたものの、人に対して構えてしまう性格は変わりません。それもこれもみーんな自意識過剰が問題だ、ということに最近気がつきました。考えてみれば、17歳頃から今日齢60になるまで、この問題にトコトン苦しんできたような気がします。ですから、一種のスペシャリストといえるのかもしれません。相変わらずのお粗末な言葉ではありますが、何かひとこと皆さんに申し上げたいという気になりました。また、むやみに苦しんでおられる方も、あちらこちらに見受けられますので、私が最近発見しましたことを、お役に立てればと、お知らせするような次第です。
なぜかアル中の人と親しくなるのでした。
「今夜すべてのバーで」の著者、故中島らも氏によると、日が高いうちにアルコールを飲みだすと、アル中の危険信号らしいですね。私もスーパー銭湯に通っていたころは、ビールのジョッキーを毎度飲んでいましたから、やや危険だったのでしょう。今まで親しくなった人も、なぜかアル中気味の人が多く、今まで2人も酒が原因で早くに亡くなってしまいました。彼らに共通しているのは、シャイなことです。他人と接する際、緊張するために、酒を飲むんですね。本人たちが、そのことにどれだけ自覚的だったのか、今となっては聞く由もありませんが、私が彼らに親近感を感じたのは、おそらく、そういった彼らの繊細さ、シャイなところであったと、今では確信しています。ですから、その心中はなんとなくわかるんです。酒が好きというよりは、リラックスしたい、現実をダイレクトに受け止めるのでなく己と世界との間にクッションを置きたい、そんな感じなんです。私も社交性はそこそこあり、人も嫌いではないのですが、人の中にいると異常に疲れるので、できるだけ人が多い場所にはいかない、いや、いけないのかもしれません。そういう人間です。人恋しくもあるのだけど、疲れもする。そんなジレンマを抱えて、ずっと生きてきました。うつ病でお世話になった精神科医のM先生からも「人に会うと緊張するタイプなんですよ」と言われました。「2、3人で会うのは大丈夫だけど、大勢の集まりは疲れる」と言うと、「2、3人で楽しくやれれば、それで充分じゃないですか」と慰められ、それもそうだな、と。これは生まれつきの性格だから、矯め直そうとしても無理なのかなあ、と半ば諦めていました。ところが、最近になって、ああ、そうか、それで緊張してしまうんだ! ということが実に良く腑に落ち、治らないまでも、ましになる糸口を見つけたので、以下そのことを申し上げます。
評価してほしい人の前で人は緊張する
緊張タイプの人は、人付き合いに苦手意識を抱いてしまっているので、そもそも自分が緊張してしまっているその現場をじっくりと観察することがない、できないわけです。緊張する➡慌てる➡苦手意識をつのらせる、という悪循環に陥っています。で、まず、確認したいのは、人付き合いが苦手な人って、世の中に一定数いますよね? クラスにも必ず内気な人っているでしょう? それがなぜ自分だったらダメなんでしょうか、ということです。そこに、内気より強気、勝気のほうがいい、という全く根拠のない決めつけがあります。内気である自分を受け入れられず、内気を勝気に変えたいという変身願望があります。ですので、かえって対人の際、自分を取り繕うので疲れる、ぎこちなくなるのです。その場合の基本的なモードは、相手に気に入ってもらいたいという願望です。エエカッコしようとするから、疲れるのです。ちょっと思考実験をしてみましょう。あなたは、動物園のサルの飼育係です。エサをもって檻の中に入ります。サルが一斉にこちらを見ます。緊張するでしょうか? 別の意味で緊張するかもしれませんが、対人のような緊張はないでしょう。それはサルに気に入られたいという願望があまりないからです。サルはエサをくれる人はとりあえず好きになります。ところが、人間相手だとこうはいきません。たとえばプレゼンか何かで、あなたが人前で発表するとしましょう。あなたが登場すると、一斉にその場の100人の視線を浴びているように感じるかもしれません。Aさんが見ている、Bさんも来ている、Cさんも・・・と感じるうちに、あがってしまう。違いますか? 受けたい、認められたい、褒められたいの願望が強すぎると、緊張してしまいますね。また、100人すべてを納得させたいというような、野望を抱きますともういけません。プロならともかく、素人がそんなこと土台無理なんですから、50人、いや10人聞いてくれたらそれでいいくらいの気持ちでやると、おそらくいいのでしょう。これは一対多のケース。
じゃあ、一対一のケースだとどうでしょう。あなたが20歳代の男子だとして、母親と喫茶店に入りました。向かい合って緊張しますか? 普通の状況なら緊張しないでしょう。また、バイト先の60代のおばちゃんと喫茶店に入りました。向かい合って緊張しますか? そんなでもないでしょう? では、好きな女の子と初デートで喫茶店に入りました。これは、もちろん緊張しますね。緊張しないなら、相当なジゴロです。緊張するなら、それは彼女に気に入られたいからです。それが普通です。ですが、もし運よくその彼女と結婚して、10年連れ添ったとしましょう。緊張するでしょうか? これは人によって程度は様々でしょうが、緊張しなくなるんですね。それはお互い、ただのケモノだ、オスだメスだということがわかってきてしまうからですね。ぶっちゃけた話、どんな美人でも、どんなイケメンでも飯も食えば糞もするわけですから、おならだって出てしまいます。ですよね? そうすると、当然最初の頃のようなロマンスはなくなります。ですが、居心地の良さは増します。カッコつける必要がなくなるからです。このバランスのなかで夫婦関係が成り立っていくのでしょうが、ここでは自意識の問題に戻りましょう。「評価してほしい人間の前で人は緊張する」ことを確認して、次に「緊張する瞬間、こころはどのようになっているのか」ということをお話しします。
意識の粒子がパッと飛んで、跳ね返るのがわかった
先に申し上げましたように、人前で緊張する人は、その場面に遭遇すると、自動的にあがってしまうので、その場をよく観察することができません。そのため、どのようにして自分が緊張してしまうのかわからない。わからないから、よけいにその場が恐怖の対象となって、その人に脅威を与えるようになってしまうのです。私の経験をお話しします。坐禅修行を始めて10年以上経った時のことです。ある偉い方の前に参上する機会があり、いつものように「緊張すまい」と自戒しながら頭を下げました。そして、顔を上げた瞬間、意識の粒子が飛んで、私に向かってそれが跳ね返るのがわかったんです。緊張が生まれた瞬間を、こうしてとらえることができました。つまり、言い換えるとこういうことです。私はその人に認められたいという欲望をもって、その会見に臨んだ。その瞬間、自分が見られているという架空の感覚を自分の意識で作り出した。その人が実際に私を見たのでなく、私が勝手に見られている感覚を作り出していたのです。そして、その時の感覚は緊張感とも言えるし、自意識とも言えるものでした。自意識とは、自分だけで成立する意識ではなく、他人からどう見られるかを気にする意識だったんですね。当り前じゃないかと、いわれるかもしれませんが、私には新鮮で目から鱗が落ちるような体験だったんです。また、意識の粒子なんて言い方も、不適切かもしれませんが、私としてはそんな感じがしました。また、それが跳ね返ってきて私を緊張させたことも実感しました。まるで自分が投げたボールが顔に当たって痛い、というような感覚です。それ以来、人前で緊張することが少なくなりました。というのも、自分で意識を飛ばさないように気を付けているだけでいいわけですから、事は簡単です。ときどき対人の際あわてだしたり、緊張が始まることは今だにありますが、そういうとき、意識を内側の留めて外に走らせないようにしていると、それよりひどくなることはありません。自分の心の状態を少し離れたところから見ている感じです。
まとめ
どうでしょうか。何かヒントになる知見は得られましたでしょうか。ひょっとすると「意識を内側に留めて外に走らせないようにする」ことが難しいかもしれません。自意識の作用というのは、本人が無自覚のまま自動化された状態で、その人の中にあるものですから、本人がその作用過程を自覚しない限り、そのまま自動的に働き続けるものなのです。ここは前にも申し上げましたように、心を見る気づきの力を瞑想修行によって培っていかないと、わかってこないことかもしれません。ただ、言えることは、緊張が起こる様子をできれば観察してごらんなさい、ということです。また、もうひとつは、他人の評価を気にしない生き方がひとつだけあるよ、ということ。それは他人の評価のなかで生きるのでなく、自分に恥ずかしくない生き方すればいいということ。説教臭く聞こえるかもしれませんが、他人の評価を気にしてばかりいて、かつて困難を抱えた60歳のオヤジがしみじみいうことです。他人の評価を気にしだすとキリがないのです。自分で考えて自分がいいと思う生き方を勇気をもってすることができれば、それは恐ろしくシンプルで、清々しい生き方になっていきます。そうすれば他人の評価や結果はむしろ気にならない。かえって人気が出てきますよ。あなたのキッパリとした生き方が共感を呼ぶのです。他人の評価を気にして、なおかつ結果を気に病むような生き方は、賢いようでいて地獄の苦しみを味わうことになります。想像してみてください。